2010年12月24日

クリスマスイブ







    今夜はぴかぴか(新しい)クリスマスイブぴかぴか(新しい)です。

      イエス・キリストの誕生は、西暦の始りです。
   
          2010年前


      ユダヤの貧しい夫婦の間に生まれた小さな赤ん坊が、
             私たちの歴史を

紀元前(BC)から紀元後(AD)に変えた日

        ちょっと、しのんでみませんか。

                                
   ぜひ、お近くの教会をお訪ねください

   クリスマスのお祝いに
いろんなイベントをご用意しています!



   
         ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)    


         さとうまさこ

  
   
   


   
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2010年12月04日

クリスマストピックス・アドベント




クリスマストピックス・アドベント




 先日、日が落ちたばかりの頃、いつもは通らない道を自転車で走ると、すばらしいライトニングでおおわれたお宅がありました。
 垣根や家のまわりはすべて明かりのネットで包まれ、軒からはつららのように青や赤の明かりが垂れ下がり、二階の大きなテラスには鹿やウサギや雪だるまがライトを浴びて並んでいます。メルヘンの家のようで、思わず見とれてしまいました。

 
 私の出席している教会(町田クリスチャンセンター)でも、先月下旬にクリスマスの飾り付けをして、玄関先が華やかになりました。一歩教会に入ると、クリスマスツリー、大きなリースが「よろこびのとき」を知らせてくれます。
 
 
 クリスマスのイブの前、四週間を、教会では待降節(アドベント)と言います。
 礼拝堂の講壇のそばにアドベントリースを置き、毎週、ろうそくを一本づつふやして立ててゆきます。クリスマスイブ当日は、四本のろうそくが立つのです。

 教会は、閉ざされた秘密の場所ではありません。

 まだ、教会に行かれたことのない方、クリスマスとはどんなものかしらと思われる方は、一度、お近くの教会で、クリスマスを楽しまれることを、お勧めします。
 
 日本では、クリスマスが国の祝日ではないので、たいていの教会は、クリスマスに一番近い日曜日が、クリスマス礼拝です。
 
 でも、クリスマスイブの礼拝は、十二月二十四日夕方に行なうところがほとんどでしょう。
 聖歌隊の歌う賛美歌やキャンドルサービス、劇、楽器の演奏、食事会など、教会によって違いますが、さまざまな行事が準備されています。
 救い主イエス・キリスト降誕の喜びの、ほんの一端にでも、触れていただけたらと願っています。
   
 
                                   さとうまさこ         




    
クリスマス、キリスト教、教会、聖書などについて、お訊ねになりたいことがある方は、メールを下さい。
また、お近くのキリスト教教会にお問い合わせいただいたら、きっと答えていただけることでしょう。








      


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2010年12月03日

クリスマストピックス・贈り物C




クリスマストピックス・贈り物C



 イスラエルの人たちが住んでいたのは、昔から文明の十字路と言われてきた、中東パレスチナでした。たくさんの国や民族が入り混じって、しょっちゅう衝突が起こり、平和の商人だけでなく、大国の軍隊が出入りする場所でした。
 
 イエス・キリストがユダヤ(イスラエル)のベツレヘムという小さな町で生まれたとき、イスラエルはローマ帝国に占領されていました。
 宗教的にはユダヤ教が許され、ヘロデ王という傀儡の王がいて多少の自治もありましたが、植民地の苦しみを味わっていました。
 
 イスラエルに、いつか救い主が来て、自分たちを救ってくださると言うのはたんなる願望ではなく、旧約聖書に記録されている預言者の予言にも何度も出てきます。
 

 クリスマストピックス・降誕で引用した聖書箇所は、その予言に基づいて、救い主が生まれた場面です。

 では、なぜ、この赤ん坊が救い主なのでしょう。

 この赤ん坊は、じつは、犠牲の羊の代わりに地上に来られたからです。犠牲の羊の代わりということは、金銀のささげものや善行の代わりでもあるのです。
 どんなにたくさんの羊や供物をささげても、金銀をささげても、よい行いをしても、それだけでは足りないのです。
 それで、地域により宗教により、願い事の重大さによって、人間を犠牲としてささげるようなこともあったのです。災害や飢饉、戦争など人間の手に余るような大きな不幸は、どこから来るのかわからなかった人々にとって、人間のいのちを供物にするのは、自分たちでできる精一杯のことでした。
 でも、効果はあやしいものでした。災害や飢饉が続くこともあれば、良いお天気で豊作続きの時もあります。交渉や条約で、平和が保たれているように見える時代もあります。
 
 これまで、見てきたように、ささげものとその結果との因果関係がはっきりしないのは、神様がそのようなものをお喜びになっていないからではないでしょうか。


 神様はもともと、人間に悪を報いたいとは思っておられないのです。人間から何かをもらおうなどと、思ってはおられないのです。

 ぎゃくに、人間にいのちを与え、食べ物を与え、快適な生活環境を与えたのは、神様ご自身なのです。

 人間はその神様にそむいて、みずから楽園を出て行かなければならないような境遇になり、労苦が道連れになったのです。

 もう一度、手もとに戻ってきて欲しいと神様は思っておられたのです。ただ、その確証が必要でした。人はそれが、何であるかわからないので、祭壇を築いたり、犠牲の羊をささげたり、収穫物をささげたり、するのです。
 
 神様は、人間には自分の罪を自分で贖う(帳消しにする)のは無理だと、ご存知でした。しかし、そのように一所懸命に、神様に祈願する態度を憐れに思ってくださったに違いありません。

 


 イエス・キリストは人の姿を取って私たちの世界においでになった神様のひとり子です。これは、いわゆる生物的な意味での子どもではありません。むしろ、神様ご自身が人の目に見え、人の手で触れることができる姿になって、「子」という名目をもっておいでになった方です。

 その誕生を記念するのが、クリスマスです。

 イエス・キリストは長じて、十字架に掛けられ殺されました。殺されるためにお生まれになったのです。形はローマ兵による刑死でしたが、それは、すべて予定の行動で、神様への供え物として殺されたのです。

 神様自身が供え物なのですから、これで、何百人でも、何万人でも、いや、全人類のささげもの以上の価値があるのです。

 それが、福音(Good News)の意味です。
 
 え! 死んじゃったのと驚かないでください。
 キリストは十字架の上で人として磔になりましたが、三日目に墓の中から甦られました。それが、キリストの復活です。

 私たちがキリストを信じる「信仰だけ」で、救われると言うのは、そのためなのです。


           つづく


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2010年12月02日

クリスマストピックス・贈り物B



クリスマストピックス・贈り物B


 家族や自分の幸せのために、無難で平穏な人生のために「悪いことはしない」「できるだけ道徳的に生きる」「良いことをする」を実行しようとしている人は、たくさんいると思います。
 「自分のため」「家族のため」「友人のため」と言った個人的なものから、「共同体のため」「国家のため」「人類のため」「未来の子どもたち、地球のため」と、視野を広く取ったものまで、「良い行為」「正しい行為」「犠牲的行動」「寄付」「親切」などを一度も、実行しなかったという人は、いないのではないでしょうか。

 小学生でもお手伝いをして「ありがとう」と言われると、喜びます。中学生ともなると仲間と電車の中でふざけていても、からだの不自由な人やお年寄りが乗ってくると、さっと席をゆずります。
 
 良いことをしたいと願うのも、私たちのDNAに組み込まれているのです。でも、同時に、それは、私たちの性質の百パーセントではないのも、みんな知っています。

 マザー・テレサの活動は、世界中に知られていて、だれでも感動します。寄付をしたり、短い時間でも手伝いに出かけたりする人は後を絶ちません。ツアーといっしょになったボランティア活動もあるそうです。(知人がそのようなツアーで、現地に行き、お手伝いをしたそうです。)
 感動はしても、マザー・テレサのように、一生を貧民街で、極貧の人のために捧げるかどうかは、別の話です。まして、そのような生き方を強制されるのはごめんだと思う人も多いでしょう。

 私たちの良心や善意は、自分が思っているよりずっと、限定的なものではないでしょうか。




 
 
 人身御供という言葉を聞いたことがあるでしょうか。人柱はどうでしょう。

 昔、国や地域社会で、どうにもならないほど大きな祈願をするときに、動物や穀物などの供え物ではなく、人間を犠牲として捧げたという言い伝えや記録が、世界中にあります。
 何年も雨が降らない時の雨乞い、大きな城を築く時、何度も水が氾濫し、作っても作っても決壊する堤防を築くような土木工事の時、犠牲として人間を捧げたというのです。

 このような祭儀の底にあるのは、供物として、人間が他の動物や食物よりはるかに価値があるという考え方です。人間の命は、たとえ原始的な社会、人権感覚などない世界でも、とても大きな意味があった、その裏返しでもあるでしょう。
 
 


 
 聖書では、犠牲として人間を差し出すことを、禁じています。
 聖書が命令している十戒は、大きく二つに要約できます。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(神への心からの真摯な信仰)と、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい。」で、これを、完璧に行うために、たくさんの律法が記されています。
 同時に、どのように、神礼拝の儀式を完璧に行なっても、また、隣人のための義務をはたしても、やっぱり、完璧にはなれないのは、イスラエルの人たちもわかっていました。

 聖書時代(紀元前千五百年〜紀元一世紀)のイスラエルは、ダビデ王、ソロモン王が王であった一時代を除き、いつも、周辺の大国に蹂躙され、国家存亡の危機が続き、民族ごと捕囚や、強制移住の辛酸を味わわなければなりませんでした。

 このような苦しみ、不完全な世の中、不完全な自分たちのために、彼らは神礼拝をし、律法を守っていました。そして、そのような自分たちのために、神様はいつか、この世に救世主を送ってくださる。救世主が自分たちを救ってくださると信じていました。

 その救い主を、神様は人が思いもかけない方法で、思いもかけない姿で、送ってくださったのです。




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2010年12月01日

クリスマストピックス・贈り物A




クリスマストピックス・贈り物A



 旧約聖書を読むと、私たちは私たちの創造主である神に背いたために楽園を追放され、いわば悪魔が自由に跳梁跋扈している世界で苦しんでいる、それが現実のさまざまな苦しみなのだとわかります。悪魔など、出し抜いてしまえばよいと理性では思っても、神の守りの中から出てしまった私たちは、良いことをするつもりでも悪いことをしてしまう罪びとなのです。
 
 これはとても辛いことです。後ろめたい失敗をした子どものように、親の愛をもう一度得て、そのふところで平安を取り戻したいのですが、親の顔を正視できない。近づくのもはばかられる。それで、ちょっと親から離れて、いそいで庭掃除などしたことが、私にもあります。
 親は親で、言いつけを破った子どもを許せないのですが、でも、何とか許して抱き寄せてやりたいと思っています。ただ、あいまいなところで、「いいよ」と許すと子どもが、なにが悪かったのかもわかりません。

 

 
 イスラエルの人たちは、大変まじめに神礼拝をしていたのです。律法に書いているとおり、一年に一度神殿に行き、羊や鳩、小麦を捧げて祭司に祈ってもらっていました。

 もちろん、ものを捧げるだけでは足りないとわかっていました。神様を礼拝し、安息日を守り、隣人を愛するよう努めてもいました。良い行いをして、神様に喜んでいただこうと、十戒とその細則にあたる掟を守ろうとしたのです。


 それでも十分ではありませんでした。
 なぜなら、人間が罪を犯してそれを許していただくためには、身代わりに羊を殺したのでは足りないからです。羊の数を十頭に増やしても百頭にしても同じです。人間ひとりの価値にも及ばないのです。

 結果として、イスラエル人はますます規則づくめになり、行いを厳しくする律法主義は、人がどうしても完璧にはなれないことを、あらわにするのでした。

                   つづく






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