2010年12月03日

クリスマストピックス・贈り物C




クリスマストピックス・贈り物C



 イスラエルの人たちが住んでいたのは、昔から文明の十字路と言われてきた、中東パレスチナでした。たくさんの国や民族が入り混じって、しょっちゅう衝突が起こり、平和の商人だけでなく、大国の軍隊が出入りする場所でした。
 
 イエス・キリストがユダヤ(イスラエル)のベツレヘムという小さな町で生まれたとき、イスラエルはローマ帝国に占領されていました。
 宗教的にはユダヤ教が許され、ヘロデ王という傀儡の王がいて多少の自治もありましたが、植民地の苦しみを味わっていました。
 
 イスラエルに、いつか救い主が来て、自分たちを救ってくださると言うのはたんなる願望ではなく、旧約聖書に記録されている預言者の予言にも何度も出てきます。
 

 クリスマストピックス・降誕で引用した聖書箇所は、その予言に基づいて、救い主が生まれた場面です。

 では、なぜ、この赤ん坊が救い主なのでしょう。

 この赤ん坊は、じつは、犠牲の羊の代わりに地上に来られたからです。犠牲の羊の代わりということは、金銀のささげものや善行の代わりでもあるのです。
 どんなにたくさんの羊や供物をささげても、金銀をささげても、よい行いをしても、それだけでは足りないのです。
 それで、地域により宗教により、願い事の重大さによって、人間を犠牲としてささげるようなこともあったのです。災害や飢饉、戦争など人間の手に余るような大きな不幸は、どこから来るのかわからなかった人々にとって、人間のいのちを供物にするのは、自分たちでできる精一杯のことでした。
 でも、効果はあやしいものでした。災害や飢饉が続くこともあれば、良いお天気で豊作続きの時もあります。交渉や条約で、平和が保たれているように見える時代もあります。
 
 これまで、見てきたように、ささげものとその結果との因果関係がはっきりしないのは、神様がそのようなものをお喜びになっていないからではないでしょうか。


 神様はもともと、人間に悪を報いたいとは思っておられないのです。人間から何かをもらおうなどと、思ってはおられないのです。

 ぎゃくに、人間にいのちを与え、食べ物を与え、快適な生活環境を与えたのは、神様ご自身なのです。

 人間はその神様にそむいて、みずから楽園を出て行かなければならないような境遇になり、労苦が道連れになったのです。

 もう一度、手もとに戻ってきて欲しいと神様は思っておられたのです。ただ、その確証が必要でした。人はそれが、何であるかわからないので、祭壇を築いたり、犠牲の羊をささげたり、収穫物をささげたり、するのです。
 
 神様は、人間には自分の罪を自分で贖う(帳消しにする)のは無理だと、ご存知でした。しかし、そのように一所懸命に、神様に祈願する態度を憐れに思ってくださったに違いありません。

 


 イエス・キリストは人の姿を取って私たちの世界においでになった神様のひとり子です。これは、いわゆる生物的な意味での子どもではありません。むしろ、神様ご自身が人の目に見え、人の手で触れることができる姿になって、「子」という名目をもっておいでになった方です。

 その誕生を記念するのが、クリスマスです。

 イエス・キリストは長じて、十字架に掛けられ殺されました。殺されるためにお生まれになったのです。形はローマ兵による刑死でしたが、それは、すべて予定の行動で、神様への供え物として殺されたのです。

 神様自身が供え物なのですから、これで、何百人でも、何万人でも、いや、全人類のささげもの以上の価値があるのです。

 それが、福音(Good News)の意味です。
 
 え! 死んじゃったのと驚かないでください。
 キリストは十字架の上で人として磔になりましたが、三日目に墓の中から甦られました。それが、キリストの復活です。

 私たちがキリストを信じる「信仰だけ」で、救われると言うのは、そのためなのです。


           つづく


posted by さとうまさこ at 13:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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