2010年12月02日

クリスマストピックス・贈り物B



クリスマストピックス・贈り物B


 家族や自分の幸せのために、無難で平穏な人生のために「悪いことはしない」「できるだけ道徳的に生きる」「良いことをする」を実行しようとしている人は、たくさんいると思います。
 「自分のため」「家族のため」「友人のため」と言った個人的なものから、「共同体のため」「国家のため」「人類のため」「未来の子どもたち、地球のため」と、視野を広く取ったものまで、「良い行為」「正しい行為」「犠牲的行動」「寄付」「親切」などを一度も、実行しなかったという人は、いないのではないでしょうか。

 小学生でもお手伝いをして「ありがとう」と言われると、喜びます。中学生ともなると仲間と電車の中でふざけていても、からだの不自由な人やお年寄りが乗ってくると、さっと席をゆずります。
 
 良いことをしたいと願うのも、私たちのDNAに組み込まれているのです。でも、同時に、それは、私たちの性質の百パーセントではないのも、みんな知っています。

 マザー・テレサの活動は、世界中に知られていて、だれでも感動します。寄付をしたり、短い時間でも手伝いに出かけたりする人は後を絶ちません。ツアーといっしょになったボランティア活動もあるそうです。(知人がそのようなツアーで、現地に行き、お手伝いをしたそうです。)
 感動はしても、マザー・テレサのように、一生を貧民街で、極貧の人のために捧げるかどうかは、別の話です。まして、そのような生き方を強制されるのはごめんだと思う人も多いでしょう。

 私たちの良心や善意は、自分が思っているよりずっと、限定的なものではないでしょうか。




 
 
 人身御供という言葉を聞いたことがあるでしょうか。人柱はどうでしょう。

 昔、国や地域社会で、どうにもならないほど大きな祈願をするときに、動物や穀物などの供え物ではなく、人間を犠牲として捧げたという言い伝えや記録が、世界中にあります。
 何年も雨が降らない時の雨乞い、大きな城を築く時、何度も水が氾濫し、作っても作っても決壊する堤防を築くような土木工事の時、犠牲として人間を捧げたというのです。

 このような祭儀の底にあるのは、供物として、人間が他の動物や食物よりはるかに価値があるという考え方です。人間の命は、たとえ原始的な社会、人権感覚などない世界でも、とても大きな意味があった、その裏返しでもあるでしょう。
 
 


 
 聖書では、犠牲として人間を差し出すことを、禁じています。
 聖書が命令している十戒は、大きく二つに要約できます。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(神への心からの真摯な信仰)と、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい。」で、これを、完璧に行うために、たくさんの律法が記されています。
 同時に、どのように、神礼拝の儀式を完璧に行なっても、また、隣人のための義務をはたしても、やっぱり、完璧にはなれないのは、イスラエルの人たちもわかっていました。

 聖書時代(紀元前千五百年〜紀元一世紀)のイスラエルは、ダビデ王、ソロモン王が王であった一時代を除き、いつも、周辺の大国に蹂躙され、国家存亡の危機が続き、民族ごと捕囚や、強制移住の辛酸を味わわなければなりませんでした。

 このような苦しみ、不完全な世の中、不完全な自分たちのために、彼らは神礼拝をし、律法を守っていました。そして、そのような自分たちのために、神様はいつか、この世に救世主を送ってくださる。救世主が自分たちを救ってくださると信じていました。

 その救い主を、神様は人が思いもかけない方法で、思いもかけない姿で、送ってくださったのです。




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2010年12月01日

クリスマストピックス・贈り物A




クリスマストピックス・贈り物A



 旧約聖書を読むと、私たちは私たちの創造主である神に背いたために楽園を追放され、いわば悪魔が自由に跳梁跋扈している世界で苦しんでいる、それが現実のさまざまな苦しみなのだとわかります。悪魔など、出し抜いてしまえばよいと理性では思っても、神の守りの中から出てしまった私たちは、良いことをするつもりでも悪いことをしてしまう罪びとなのです。
 
 これはとても辛いことです。後ろめたい失敗をした子どものように、親の愛をもう一度得て、そのふところで平安を取り戻したいのですが、親の顔を正視できない。近づくのもはばかられる。それで、ちょっと親から離れて、いそいで庭掃除などしたことが、私にもあります。
 親は親で、言いつけを破った子どもを許せないのですが、でも、何とか許して抱き寄せてやりたいと思っています。ただ、あいまいなところで、「いいよ」と許すと子どもが、なにが悪かったのかもわかりません。

 

 
 イスラエルの人たちは、大変まじめに神礼拝をしていたのです。律法に書いているとおり、一年に一度神殿に行き、羊や鳩、小麦を捧げて祭司に祈ってもらっていました。

 もちろん、ものを捧げるだけでは足りないとわかっていました。神様を礼拝し、安息日を守り、隣人を愛するよう努めてもいました。良い行いをして、神様に喜んでいただこうと、十戒とその細則にあたる掟を守ろうとしたのです。


 それでも十分ではありませんでした。
 なぜなら、人間が罪を犯してそれを許していただくためには、身代わりに羊を殺したのでは足りないからです。羊の数を十頭に増やしても百頭にしても同じです。人間ひとりの価値にも及ばないのです。

 結果として、イスラエル人はますます規則づくめになり、行いを厳しくする律法主義は、人がどうしても完璧にはなれないことを、あらわにするのでした。

                   つづく






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2010年11月30日

クリスマストピックス・贈り物@




 クリスマストピックス・贈り物@



 私たち日本人は、無宗教だと言われます。しかし、正月、子供の誕生、結婚や葬式に際して、宗教行事を行なわない人は少ないのではないでしょうか。

 神や仏に金など出せるかと思う人でも、初詣に行けば、お賽銭を入れずに手を合わせるのは気が引けるでしょう。それで、正月が終わった後、有名な神社などで、賽銭箱を開けてその額を数えるのがニュースになったりするのです。

 ところで、自分が何に対してお金を入れているのか、どれくらいの方が自覚しているでしょうか。家内安全、商売繁盛、受験、結婚、昇進など、いわゆるご利益を願っているのでしたら、たいていの人は、大変わずかな額で大きなものを得ようとしているのに、気がつくでしょう。過去一年無事であったこと、今幸せであることに感謝すると言う場合、人に知られていないけれど、自分で犯した罪に良心が咎めて、神仏に許してもらおうと思う場合も、同じです。

 それらは、お金で買えないほど大きな出来事です。たとえ、一万円札を入れても、やはり、小銭で間に合わせていると言われても、仕方がないのではないでしょうか。

 
 友人の話ですが、誘われてある新興宗教の集会に行くと、最初から千円、五千円、一万円と献金の額が決まっていたそうです。名前を書いて小さなしるしを買うらしいのですが、「これはどういう意味だ」と聞きますと、教祖があとでそのしるしと名前を見て拝んでくださるとか。もちろん、一番高い額が一番大きなご利益を約束しているのです。
 これも、ヘンだと感じるのが、「健全な」感覚ではないでしょうか。



 
 旧約聖書のレビ記には、ささげ物の規程が細かく記されていて、その目的や手続きとともに、ささげ物の種類が書いてあります。ふつうは牛か羊などの傷のないものなのですが、羊を買う余裕のない人は、山鳩二羽、または家鳩のひな二羽と定められています。
 それさえ、手に入れることができない人は、小麦粉をささげるよう定めています。
 これは、人の経済状態を配慮したもので、なかなか思いやりのある規定です。 このような規程があれば、同じ罪の贖いのためでも何かの祈願でも、貧しい人もお金のある人同様、祭司に祈ってもらえます。

 旧約聖書には、このささげ物に対する記述が、おびただしく記されています。聖書を読もうとして、まず参ってしまうのは、このような規程が延々と出てくることでしょう。
 これは、イスラエル人が神との関係を、どのように考え、取り扱っていたかの具体的な現われでもあるのです。


 しかし、これだけ念の入ったささげ物の記述・規程ですが、それでもじつは、神に対する罪の贖い、神の前に出て祈願するのに、とおく及ばないものでした。

 
 

                     つづく




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2010年11月29日

クリスマストピックス・降誕





クリスマストッピックス・降誕
 


 イエス様が降誕される前、母マリヤに御使い(天使)が現れ、お告げになりました。

「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスと名づけなさい。」

 そこで、マリヤはみ使いに言った。
「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」
「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なるもの、神の子と呼ばれます。」
     (ルカの福音書1章28節〜35節より抜粋)



 有名な「受胎告知」の場面です。処女マリヤが聖霊によって懐妊したことを、天使から告げ知らされるのです。
 この場面はキリスト教の、最初の核心だと思います。天地を創造された神様は、罪を犯して楽園を追放されてしまった人間を、もう一度手もとにつれ戻されるための「救いのご計画」を進めておられました。それは、アダムとエバの楽園追放直後から始まっていたのです。
 アブラハム・イサク・ヤコブを選び、イスラエル民族を形成し、エジプトの奴隷生活から救い出し、律法を与え、王を立て、何人もの預言者を送ってこられたのは、すべて、救いの計画の一環でした。
 
 その最後に、神は救い主(キリスト)を地上に送ってくださったのです。それがイエス・キリストの誕生です。
 
 
 この話を、信じられなければ、教会に来てはならないというようなエピソードではありません。
 これを信じられない人は、聖書を読んでも無駄だということでもありません。
 クリスマスケーキを買ったり、プレゼントを交換したり、クリスマスコンサートを聞く価値がないというのでもありません。
 
 なぜなら、これは、すべての人にとって、福音(Good News)だからです。
 
 わいわい騒ぐか、静かに思いを巡らせるかどうかは、それぞれのテイストです。
 でも、イエス様は、願っておられるでしょう。
 あなたが、キリストの手の中に飛び込んでいらっしゃるのを。
 「救い」  それは、神様からの大きなプレゼントです。









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